高木覚書

自分の調子

警備のバイトをしている。施設警備なので巡回がある。巡回は決まった時間に決まった順番で回る。同じことをしているのだが、日によって不思議なくらい気持ちが変わる。楽に思う日もあれば、キツく感じてイライラする日もある。もちろん天候や体調も関係しているのだろう。聡明な人が考えるなら理由は明確かもしれない。

野球が好きなのでよく見る。ピッチャーもバッターも調子がいいとか悪いとか言われる。ブルペンでよかっても、本番で投げてみるまでわからない。昨日猛打賞の選手がピタッとヒットを打てなくなる。ベテランになるほど、やってみるまでわからないと自分のことを慎重に分析する。そのことを昔、松本人志がテレビでバカにしていた。自分の調子が自分でわからんてなんやねんと。

菅原克己のマクシムという詩が好きである。マクシムというのは人の名前なのか、格言などの意味なのか、どちらでもありそうである。読みやすいという意味で易しい詩である。

誰かの詩にあったようだが 誰だか思いだせない。 労働者かしら、 それとも芝居のせりふだったろうか。 だが、自分で自分の肩をたたくような このことばが好きだ、 <マクシム、どうだ、 青空をみようじゃねえか>

むかし、ぼくは持っていた、 汚れたレインコートと、夢を。 ぼくの好きな娘は死んだ。 ぼくは馘(くび)になった。 馘になって公園のベンチで弁当を食べた。 ぼくは留置所に入った。 入ったら金網の前で いやというほど殴られた ある日、ぼくは河っぷちで 自分で自分を元気づけた <マクシム、どうだ、 青空をみようじゃねえか>

のろまな時のひと打ちに、 いまでは笑ってなんでも話せる。だが、 馘も、ブタ箱も、死んだ娘も、 みんなほんとうだった。 若い時分のことはみんなほんとうだった。 汚れたレインコートでくるんだ 夢も、未来も……。

言ってごらん、 もしも、若い君が苦労したら、 何か落目で、自分がかわいそうになったら その時にはちょっと胸をはって むかしのぼくのように言ってごらん <マクシム、どうだ、 青空をみようじゃねえか>

ほとんど関係ないが人名という連想から石原吉郎のフェルナンデスという詩も思い出す。石原吉郎では最初の詩集の納得という詩や、木のあいさつなどもよく思い出す。

フェルナンデスと 呼ぶのはただしい 寺院の壁の しずかな くぼみをそう名づけた ひとりの男が壁にもたれ あたたかなくぼみを のこして去った <フェルナンデス> しかられたこどもが 目を伏せて立つほどの しずかなくぼみは いまもそう呼ばれる ある日やさしく壁にもたれ 男は口を 閉じて去った <フェルナンデス> しかられたこどもよ 空をめぐり 墓標をめぐり終えたとき 私をそう呼べ 私はそこに立ったのだ

40歳くらいまで詩というものはまったくわからなかった。なぜこんなものが存在しているのか。いやそれなりにわかったつもりではいたが、それ以降まったくわかってなかったことがわかったということだと思う。

小説の受け取り方も変わった気がする。先日、図書館でチャールズ・ブコウスキーを読んだ。薬局の処方箋の待ち時間に短編をひとつ読んだだけだったが、昔読んだときとはまるで印象が違った。なんとなくイメージしていた猥雑さや男性性は感じず、ただ静謐な悲しみだけがあるようだった。だれにもなにも語りかけることなどできない、という悲しみ。